究極はなりきる

信仰の究極の形は祈る対象そのものになりきることらしい。

密教関係の書籍に書いてあった。

俺で言えば観音様や毘沙門様になりきり生きるということ。

戦国武将で言えば上杉謙信がちょうどその生き方をしていた。

彼は毘沙門天に祈り、毘沙門天になりきることで戦では無類の強さを見せた。

密教で言うなりきるはあながち間違っていない。

俺もそうする。