救済の仕組み

延命十句観音経も15000回を越えた。

観音信仰の基本は観音様は存在すると信じて疑わないこと。

存在を疑えば観音信仰は成立しなくなる。

ある程度生きてきて若い頃とは違い、人生は見えない何かが作ったシナリオの通りに生かされていると気づいた。

努力を否定してしまうが、いろいろ見たり経験したりして至った考えで間違っているとは思っていない。

異世界モノのアニメや小説が流行っているが、この世界自体がその異世界のひとつかもしれない。

観音様は実在する。目に見えないが、この世界を創った存在のサポートをされている。

存在に気づき救いを求める者は分け隔てなく救済する。

逆にいえば、存在を信じない者が助けを求めて祈っても分け隔てなく助けないということ。

ここは理不尽に感じるかもしれないが、真面目に努力し、能力がある人でも人生がうまくいかないというケースを見たり、理不尽なケースをたくさん見てきてそう思うようになった。

観音信仰もひとつの仕組みなのかもしれない。

ゲームの中で裏技を見つける人がいるように昔の人の中にこの世の理不尽さを追求していくうちに見えない脚本家がいると気づいた人がいるのだ。

国や地域により、その存在への名称が変わっただけだと思う。

そして創造主自体に祈っても救われず、創造主が隠れアイテムのようにゲーム内に見えないサポート役として設定した観音様に祈ることで救われるという仕組みになっている。

俺は最近までそれに気づかなかった。

源頼朝公のような観音信者で見事に救われた人もいる。

彼も流人の人生シナリオで終わる人生だったかもしれなかったが、流人の時に観音様信仰に気づかれた。

シナリオとまでは意識していなかっただろうが、存在を信じて必死に祈っていたのは確か。

自分も運命は観音様に委ねる。

存在を信じて一心に救いを求める。

最近は観音様があらゆる神仏に姿を変えて救済しようとするのもわかった。

気の弱さが悩みだったが、最近は観音経を唱えていると、観音様の姿があまりイメージできず、強そうな毘沙門天の姿がイメージされる。

毘沙門天は観音様の変化される姿のひとつである。

観音様が自分に足りない力をなんとかしようと救いを差しのべてくれているのだ。

言い方は失礼だが、ロールプレイングゲームの中で裏技を見つけたようなモノである。救済アイテムではないが、救済してくれる仕組みなのである。

だからこそ逆に存在を信じるし、熱心に祈れる。

理不尽な事象の説明が自分の中でできたからだ。

南無観世音菩薩🙏
南無観世音菩薩🙏
南無観世音菩薩🙏